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尾崎行雄について

咢堂言行録

『本当の人間をつくる教育』

・・・今までは教育までが、軍閥や財閥のために、天皇のためにという名目のもとに、いろいろな偽りや迷信で歪められていた。だからそれは人間に仕上げる教育ではなくて、むしろ人間を奴隷にする教育、鳥や獣にする教育であったのだ。それでその結果、自分が何であるかを知らない、人間としての魂を持たぬものができあがったのだ。

・・・諸君の生命や財産は誰のものでもなく、自分のものである・・・それと同じように、諸君が学校で教育を受けるのも、自分のためであるのだ。自分を人間らしい人間、鳥や獣と違った、本当の人間にするためであるのだ。自分のためといっても、何もかも自分さえよければよい、人の迷惑などはかまわないというのではいけない。それではまた鳥や獣になってしまう。自分を本当の人間にし、人間らしい生活をしようというのには、人にもそうしなければだめだ。

今、さかんに自由という事が言われているが、自由もその通りで人の自由を尊重しなければ、自分の自由は失われる。自由はわがままとは違う。だからお互いの自由を尊重し合うため、法律や義務やその他のきまりを守らねばならぬのだ。英国人は、非常に自由を重んじる国民であるが、またよく法律を守る国民でもある。どうしたらよく法律を守れるかと考える国民だ。日本人は、どうしたらよく法律をくぐってうまいことができるかと法律をくぐることを考える国民だと言われていた。これは本当の人間をつくる教育が行われていなかったからである。今われわれは、奴隷から解放されて、自由のある独立した人間となったのであるが、はたして、皆本当の人間になり、人間としての魂を取り戻すことができたであろうか。
 

尾崎行雄『わが遺言』(昭和26年)、『尾崎咢堂全集第十巻』345頁より。

 

『協調か孤立か、門戸開放か門戸閉鎖か』

世界の土地と資源は、全人類のために利用せらるべきである。この地球は、独りアジア民族のために創造されたものでないと同じく、ヨーロッパ民族のためにつくられたものでもない。人類はすでにこの真理を理解し始めており、時代の進歩するに従って、よりよくこれを理解するようになるであろう。この世界的認識に対するおもな障害は、各国が、富と権力において他国を凌がんとする狭隘な野心をもつことである。この野心が各国を支配しているかぎり、世界的平等への進歩は行われない。・・・

孤立主義や門戸閉鎖主義は、広大な領土と巨大な資源を有する英国や米国、或いはソ連や中国などには可能であるが、これらの国々とまるでちがった環境にある日本には適しない。日本は、富と人との世界的交流をはかり、『門戸開放政策』の先導者になる方が有利である。この目的を達するには、日本に高尚にして神聖な精神を注入しなければならぬ。かくして日本は、弱小民族を援助することによって、偉大なる正義への道を歩むこととなろう。

これこそ世界を救済するのみならず、日本を救う道である。日本の運命は、日本がこの方向をとることに成功するか否かにかかっている。現在の日本は、生死の関頭に立っている。日本は小国の先頭に立って、正義への道を進まんとするか。はたまた大国の進みつつある狭い道にふみこんで、彼等とその運命を共にせんとするか。
 

尾崎行雄『墓標に代えて』(昭和7年)より。

『世界連邦建設の構想』

【世界連邦建設ニ関スル決議案】

建国以来未曾有ノ大屈辱ヲ招致シタル吾人昭和ノ住民ハ如何ナル苦難ヲ忍ンデモ之ヲ洗雪シ以テ祖宗ニ謝罪セザル可カラズ。其ノ方法ノ一トシテ本院ハ世界連邦ノ建設ヲ提唱シ其ノ実行ヲ速進セムコトヲ切望シ茲ニ之ヲ決議ス。其ノ組織及職権等ハ理由書ニ説ケルガ如ク其ノ道ノ権威者ヲシテ立案セシムベキダガ本員ノ私見ニ依レバ全世界ノ独立国ヲ網羅シテ一種ノ中央政府ヲ設ケ国際紛議ノ予防ト裁決ダケヲ担当セシメ其ノ他ノ職務ハ総テ列国ノ自治ニ一任シタク思フ。又中央政府首脳部ノ任期ハ三~四年ニ限リ投票ニ依テ列国代ル代ル之ヲ担当スルガ好カラウ。

【理由書】

・・・現在ノ世界列国ハ古昔ハ何レモ幾多ノ封建的小国家ニ分裂シ各々軍備ヲ整ヘテ戦闘セシモ文化進歩シテ実質的ニ境域縮小スルニ従ッテ遂ニ国内的戦闘ヲ廃絶スルニ至レリ。世界列国ガ悉ク国内的ニ実行シタル方法ヲ世界的ニ実行スレバ以テ現在人類ノ最大禍患タル国際戦闘ヲ廃止シ以テ国家及人類ノ滅亡ヲ予防スルコトヲ得ベシ・・・。
 

尾崎行雄『わが遺言』(昭和26年)、『尾崎咢堂全集第十巻』308頁より。

『まずは人間づくり』

要するに国家というものを中心にして、個々に迷信的歴史と事実に背いた理屈を持って、国民性とか、国家主義、祖国、民族というようなものに重きを置いて、国際的発展を妨害している以上は、やはり第三次の世界戦争は起こるのである。・・・世界はいよいよ小さくなり、人の力はいよいよ大きくなる。大きな力を小さな世界で衝突のために用いるということは自滅するより外に到着点がないのである。そのくらいのことは子供が考えても分かるのだから是非その方針で、国家主義とか民族主義などという小さな考え方をやめて、世界を一家となすような教育を施さなければならぬ。・・・空においては空の境はない。海においても実際は境はない。海の底まで潜航艇で走り回っておるというようなことで、将来はもっとだんだん境が減る。天の境、地の境、海の境はみな無くなるのである。・・・心を広くして、人種や国の境を説かないように特別に力を用いらなければならぬはずである。
 

尾崎行雄『わが遺言』(昭和26年)、『尾崎咢堂全集第十巻』304頁より。

 

『人類を破滅に導く国家主義』

・・・私は是非とも戦争を予防したいと考える。こうした事態を防止するには、世界中の国際関係を制するところの中心勢力を、どうしても強力に、そして確実にせねばならぬ。前にはそれを国際連盟といい、今では国際連合機構といっておるが、いずれも私のいう世界連邦というのと同じもので、結局の到達点は世界の国家的区別をできるだけ減らして、中央の政府となるべきものを盛り立て、それを強化しようというのである。・・・一番大切なことは、国家制の代わりに国際制という思想及び感情を、全ての人に注ぎ込まなければならぬ。・・・今は国家というものが戦争の原因となり、従って人類滅亡の端緒を国家が作っているのであるということに気が付かないものだから、世界列国とも国家を盛り立てるのに一生懸命である。国家を盛り立てれば衝突するに決まっておる。
 

尾崎行雄『わが遺言』(昭和26年)、『尾崎咢堂全集第十巻』301頁より

『新軍備はいかにあるべきか』


・・・戦争を避けんとするなら、軍備を撤廃すべきであるが、近頃の国と国との対立では、相手の軍備よりもさらに強大な軍備を持つことが、戦争を避ける方法であるという驚くべき例外も現れてきた。・・・戦争を激発する根本はやはり国家である。国家と国家の対立が軍備の拡張となり戦争を起こす原因となる。世界から国家というものがなくなって、・・・国の代わりに県とか郡を置く。ちょうど日本の明治維新当時における廃藩置県の如く、あるいは各州からなるアメリカ合衆国ができた如く、世界というものが一つの国家になる。もしくは世界が一家になってしまえば、強大な軍備の必要もなく、したがって戦争の起こる心配もなくなる。

私は、軍備または武装というものを、各国とも極最小限度の、すなわち今の警察予備隊の程度のものとし、世界から戦争をなくするための理想として、世界政府または世界国家とも称すべき「世界連邦」ということについて、真剣に考えておる。・・・世界が一つになれば、各国共有の簡単な軍備が一つあればよい。各国には殺人や強盗を取り締まるための警察官か、あるいは内乱などの勃発に備えて警察隊のようなものがあればよい。(私の世界連邦案は単に軍備の問題ばかりではない。法律も、通貨も、言語も、教育も、居住も、暦法もことごとく共通なものが用いられ、風俗・習慣・文化等は各々尊重せられる。経済的な負担は極めて軽少で済み、一切の便利重法を享受し、平和な人間生活を営むことを理想とする。この理想を拒むところの、国家至上主義説、選民思想、人種的偏見、政体の不画一、経済イデオロギーの相違、国家的利己心、唯物論等は相容れぬ事はもちろんである)
 

尾崎行雄『わが遺言』(昭和26年)、『尾崎咢堂全集第十巻』287頁より。

『新憲法と国民の義務』

権利と義務は楯の両面である。権利がこんなに大きくなったのだから、義務もふえたかというと、これは案外で国民の権利義務を規定した第3章の中で義務の規定は第12条・・・第26条第2項・・・第27条・・・第30条・・・という4箇条だけである。

しかし、義務条項が少ないからといって油断してはいけない。この憲法が保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならないという、この義務を全うすることは、決してなまやさしいことではない。また国民はこの権利自由を濫用してはならないという義務も、よほどの反省心と自制心がなければ果たすことはできない。現に一部の人々の間に、権利自由をはき違えた濫用が既に始まっているように見える節がある。常に公共の福祉のためにこれを利用する責任もまたきわめて重要なつとめで、日本国民にこの責任が負えるか負えないかで、日本民主化の成敗は決すとさえ思われる。
 

尾崎行雄『民主政治読本』(昭和22年)、『尾崎咢堂全集第十巻』40頁より。
 

『新憲法の実-人権宣言』

戦争放棄を新憲法の花とすれば、国民の権利義務を規定した第3章は新憲法の実である。その第11条以下第40条に及ぶ自由と権利の保障は、いかなる国家の人権宣言よりも、行き届いた徹底したものだといえるであろう。民主主義の基盤である自由平等、生活権の保障は、あげて第3章につくされている。すなわち第3章において、「全ての国民は基本的人権を享有する。この基本的人権は侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」(第11条)ことが約束せられた。また「全ての国民は男女・貧富・貴賊・人種・宗教の別なく、全ての法の下に平等であって、政治的・経済的・社会的関係において差別待遇をせられない」(第14条)ことが約束せられた、また「全て国民は個人として尊重せられる。生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」(第13条)ことが約束せられた。思想及び良心の自由(第19条)、信教の自由(第20条)、集会・結社及び言論出版その他一切の表現の自由(第21条)、居住・移転・職業選択の自由及び国籍離脱の自由(第22条)、・・・その他、・・・抑留・拘禁・捜査・押収・拷問・虐待・自白の強要等、人の生命身体に関する不当の侵害を防止する約束がいたせりつくせりに書かれている。
 

尾崎行雄『民主政治読本』(昭和22年)、『尾崎咢堂全集第十巻』39頁より。

『新憲法の花-戦争放棄』

新憲法の花は、なんといっても、第2章の戦争放棄の大宣言であろう。

「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。前項の目的を達成するため、陸海軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」(日本国憲法第2章第9条)

・・・私も多年の平和論者であるが、正直に言って、かくまでに徹底してはいなかった。私はこの原案の作成者と、この原案の冒頭に「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を希求し」という文句を加えて、これを可決した議会に心から敬意を表する。

この条文の審議にあたり、「我が国だけが戦争を放棄しても、他国がこれに賛同しない限り、その実効は保障されぬではないか」という委員の質問に対し、政府は「この規定は、我が国が好戦国であるという世界の疑惑を除去する消極的効果と、国際連合自身も理想として掲げているところの、戦争は国際平和団体に対する犯罪であるとの精神を、我が国が率先して実現するという積極的効果がある。現在の我が国はまだ十分の発言権を持って、この後段の積極的理想を主張しうる段階には達していないが、必ずや、いつの日にか、世界の支持を受けるであろう」と答えたと報せられたが、この答えもまことに結構である。ただ一言、老婆心を持って言っておきたいことは、この一片の文章を見ただけでは、我が国を好戦国であるとする世界の疑惑を取り除く事はできないであろうということである。このうえは、日本人の生活のあらゆる面において、我々が真の平和愛好者であることを、実践を通して証明しなければならぬ。
 

尾崎行雄『民主政治読本』(昭和22年)、『尾崎咢堂全集第十巻』38頁より。

『制度と思想』

民政維新に最も必要なものは批判的精神である。・・・行動する前にまず批判せよ。それが誰からの命令・指令であろうとも、一度自分の良心のふるいにかけて、しかるのちに行動する。そして、その行動に対しては、どこまでも責任をとる覚悟を持った人々によってのみ、民政維新の大事業は成し遂げられるのである。

・・・立憲制度は輸入したが、これを運用する精神は輸入しなかった。近代文明の皮相は学んだが、これを生むにいたった根本の精神を学ばなかった。

・・・民政維新は、・・・進んで精神革命にまで徹底しなければならぬ。民主憲法はできたが、民主思想は消化しきれなかったのでは、すぐに行き詰まってしまう。百年はおろか千年万年経っても、制度と思想のくい違いから、国家の進運を行き詰まらせることのないように、必死の努力をかたむけねばならぬ。
 

尾崎行雄『民主政治読本』(昭和22年)、『尾崎咢堂全集第十巻』54頁より。

 

『愛国心より人類愛』

これまでの日本の教育は、国家と個人の関係における道徳の鼓吹に重きを置いて、社会と個人との関係における道徳の鼓吹を怠った。国家に対するつとめは教えたが、社会に対するつとめはあまり教えなかった。その結果、共存・共助・共栄というような社会道徳が発達しなかったのであろう。私は国境を限界とする愛国心で行き止まりになっている日本人の道徳観を、もう一歩進めて、国境を越えた人類愛の境地にまで延ばしていくことが、これからの民主教育の在り方だと思う。

・・・私は民主主義の使命は、正義観念の強い国民と、寛容な国民性をつくりあげることにあると思う。

「国家のため」という圧力に押しつぶされて、国家の悪を見逃してはいけない。いやしくも、正義人道に反する方向に行きそうな場合は、国家にだろうが、親にだろうが、夫にだろうが、敢然反対して、これらを正道に戻すような人間をつくらねばならぬ。・・・そしてそういう人こそが世界中から尊敬せられ、愛せられる人である。
 

尾崎行雄『民主政治読本』(昭和22年)、『尾崎咢堂全集第十巻』129頁より

『公共の心』

日本人の公徳心は、残念ながら欧米に比べて甚だ低い。日本の家庭では、子供が庭の草花を摘んだり、植木を折ったりすると手厳しく叱るが、公園その他の所で、共有の草木に対して悪さをしても、見て見ぬ振りをする親が多い。西洋人はこれと反対で、自庭でやったいたづらを叱らない親でも、子供が公園の草花を摘んだり、街路樹の枝を折ったりすれば手厳しく叱るか、あるいはそんなことをしてはいけない理由を、くどくど言い聞かせる。決して見て見ぬ振りはしない。
 

尾崎行雄『民主政治読本』(昭和22年)、『尾崎咢堂全集第十巻』128頁より。

『自尊心』

・・・人間平等の思想こそが民主主義の基本精神だといわれる。

我が新憲法は、その14条に、全て国民は法の下に平等であることを保証している。すなわち総理大臣だろうが、資本家だろうが、地主だろうが、我より上のものでもなく、下のものでもない。法の目から見た、人間としての値打ちは全く平等である。この精神がしっかりつかめさえすれば、誰でも、自分で自分を卑しんだり、自分で自分を軽んじたりはしない。我こそ、自分自身の権利義務の主体であるという自尊心が、むくむくと湧き上がって来るであろう。自尊心がある人は権力に屈しない。自尊心のある人は金銭に迷わされない。自尊心があれば、投票も売らない、乞食もしない、闇もしない。批判的精神のないことが、日本人に共通の欠点であるとは、敗戦後の日本を観察した外国人の定評であるが、その原因は、日本人が自尊心に欠けていることにある。

今までは主権は天皇にありとせられたが、新憲法では主権は国民にありと宣言した。国家の主権は分割することはできないから、主権在民といっても、国民の一人一人が何千何万分の一の主権の切れ端を持っているというわけでは勿論ないが、国民すなわちお互いめいめいは、国家主権の一細胞であるという意味で、何人も平等な、尊厳なる人間である。・・・自尊心があれば、上からの命令または指令に盲従はしない。必ずその命令なり指令なりを一応批判して、しかる後にそれに服従すべきか否かを決するに相違ない。権威を外に求めずして、我の内にある権威に目覚めよ。げに「神は全ての人間を平等につくり給うた」のである。

民主主義の基本精神といわれる平等思想を鼓吹して、国民の自尊心を喚起することは、民主教育の大きな役目であると思う。
 

尾崎行雄『民主政治読本』(昭和2年)、『尾崎咢堂全集第十巻』126頁より。

 

『はきちがえた民主主義』

民主主義は個人の自由権利を尊重する。しかし、いかに個人の自由権利を尊重すればとて、他人の自由権利をおかしてまで、個人の自由権利を主張していいはずはない。真に自分の自由権利の尊さを自覚した人なら、他人の自由権利の尊さを思うべきだ。もし、自分の自由権利を主張するために、他人の自由権利は踏みにじってもかまわぬというようなことが許されるなら、民主主義社会の自由は全体として失われる。社会が全体として自由を失えば、その社会の一員である個人の自由もまた、失われるのは理の当然である。

近頃、民主主義をはきちがえて、自分の、または少数団体の欲望を満たすために、他の多数の迷惑を顧みず、わがまま勝手を振る舞う心得違いのものがだいぶ増えたようだ。こうゆう不心得ものに、正邪善悪の物差しを教え込むことが、民主教育教育の一大使命である。
 

尾崎行雄『民主政治読本』(昭和22年)、『尾崎咢堂全集第十巻』118頁より。


『人間のつとめ』

たとえ自分の利益になっても、害になっても、とにかく正邪を判別する良心があれば、自分の見聞した事実を公にして、世の誤りを正すことが人間のつとめである。

・・・利害損得のみに執着する日本人の封建思想を叩き直して、正邪善悪に基づいて行動する人間をつくることが、民主教育の目的であり、教育者の使命である。

世界中から尊敬せられ、愛せられる日本人をつくるためには、まず教育家の魂から、つくりなおしてかからねばならぬとすれば、前途道遠しの嘆なきを得ない。しかし、日本人の心に根強くこびりついている利害損得本意の封建思想を叩き出して、正邪善悪本意の真の民主主義精神をしっかり教え込むというような大事業は、たとえどんな立派な教育家があったところで、とても少数の専門教育家が学校で生徒を教えるくらいで成し遂げられるような、なまやさしい仕事ではない。・・・日本人全体が教師となり、同時に生徒になった気で、たがいに教え、教えられつつして、向上していくより外はない。
 

尾崎行雄『民主政治読本』(昭和22年)、『尾崎咢堂全集第十巻』115頁より。


『議会の本質』

一般人民から選ばれた代表が一堂に会して会議を開くのは、何のためであるか。いうまでもなく、それらの代表が、どうすることが最大多数の最大幸福であるか、どうすれば国家の安全と繁栄が期せられるかという立場にたって、思う存分に意見をたたかわし、これを緊張した各代表が、何者にも縛られない完全に自由な良心を持って、議案の是非善悪を判断した結果、多数の賛成を得た意見を取り上げて、民意を政治に反映させるためである。

ゆえに真正の会議においては、少数党の言い分でも、正しければ多数の賛成を得て可決せられ、多数党から出した議案でも、議場の討論において、多数議員の良心を引き寄せることができなければ否決せられるのでなければならぬ。もし多数党の言い分なら何でも通り、少数党の言い分であれば何一つ通らないということが、会議を開く前からわかっているなら、会議を開くことは、全く無用無意味な暇つぶしである。
 

尾崎行雄『民主政治読本』(昭和22年)、『尾崎咢堂全集第十巻』74頁より。

 

『憲政と政党』

立憲政治に政党はつきものである。つきものというよりも、立憲政治は政党がなければ、やっていけない政治である。
・・・わたしはほとんど過去半世紀以上にわたり、あらゆる非立憲的勢力をはねのけて、名実かねそなわる政党政治を実現することに挺身してきた。・・・なんとしても本来の政党をつくらねばだめだと思って、ずいぶん骨を折ってみたが、どうしてもだめであった。政党の形だけはすぐできるが、それに公党の魂をいれることがどうしてもできない。なぜだろうと考えてみた。

思うに、それは日本人の思想感情がまだ封建時代をさまよっているために、利害や感情によって結ばれる親分子分の関係と同型の私党はできても、主義政策によって結ばれ、国家本位に行動する公党の精神は、どうしても呑み込めないのであろう。力をめぐって離合する感情はあっても、道理をめぐって集散する理性がないからであろう。
 

尾崎行雄『民主政治読本』(昭和22年)、『尾崎咢堂全集第十巻』72頁より。

『投票の心得』

  1. 何よりもまづ、自分はいかなる政治を希望するかという自分の意思を、はっきり決めてかかることが大切である。選挙は国民の意思を国政に反映させるために行われるというが、有権者それ自身に政治的意欲がなければ、すなわち反映する本体がなくては、いくら投票しても意味がない。・・・・

  2. 「出たい人より出したい人を」・・・・有権者のための選挙である以上かくあるべきが当然であろう。

  3. 金銭や、ごちそうや、因縁や、情実で投票しないのはもちろん、選挙の費用は、有権者の持ち寄りにしなければならないこと。・・・・

  4. 買収・ごちそう・哀訴・嘆願など、一切の不正な選挙運動をする候補者には、絶対に投票しないこと。

  5. 一から十まで政府に反対する議員も困り者だが、一から十まで政府に盲従する議員よりはましだ。常に政府党が勝つ選挙よりも、どちらかといえば、在野党の方がうけのいい選挙の方が、民主政治の趣意にかなっている。

  6. ・・・・立憲政治が、結局政党内閣制度によって運営せられねばならぬのであるから、今の政党を向上させて、真の公党に育て上げる準備のためにも、各政党の政綱政策をまじめに研究し、自分の希望するような政治をやる政党はどれか、よくよく見極めてから投票すること。

  7. 演説会場その他あらゆる機会をとらえて、有権者は各政党または候補者に向かって、具体的な政策を明示するように要求しなければならない。・・・そうして政党本部で発表した政策と候補者の言質を箇条書きにし・・・いやしくも公約を裏切った政党や議員に対しては、次の選挙の時に絶対に投票してやらぬことを覚悟すれば政党も議員も、完全に有権者によって、リードせられるようになる。

  8. 議場の内外で国会の品位をけがすような行為をするもの(下等な野次や、殴り合いをするようなものは、この部類に入れる)には投票しない。当選後、公明正大な理由もなく、選挙民の諒解も得ずに党籍を変更し、または他の政党に入党するようなものには投票しない。・・・

  9. ・・・また多数党でなければ何も出来ないから、投票しても損だと考えることも、「長いものには巻かれろ」式の封建思想のなごりであって、多数少数は有権者が投票して決めるのだという民主政治の「いろは」さえもわきまえぬもののたわごとである。・・・

川上を濁しておいて、下流の清きを期することはできない。川上の選挙が濁れば、川下の政治も濁るのが当たり前である。腐った水にボウフラがわくように、腐った選挙からは自堕落政治のボウフラがわく。日本民主化の大建築は、正しい選挙の土台の上にでなければたてることはできない。

尾崎行雄『民主政治読本』(昭和22年)、『尾崎咢堂全集第十巻』70頁より。

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『誰のための選挙か』

大切な選挙権をどう使えばいいか、投票は誰のためにするのであるか、自分の不利益になるような法律をつくらせない代表者を選ぶために使わねばならぬ。自分自身のためにする投票でなければならぬことは、もう言わずして明らかなはずだが、我が国の有権者のうちには、今でも、選挙は候補者のためにするものと心得ている人がかなりたくさんあるようだ。

候補者のための選挙だと思えばこそ、「頼まれたから」「金をくれたから」「義理があるから」いれてやるという気にもなる。もし選挙は自分の生命財産その他の権利自由を守るための番人を選ぶことだと悟れば、どんな馬鹿でも「頼まれたから」いれるのではない、こちらから頼んで出てもらうのだ。候補者から金をもらうどころか、選挙の費用は、頼む側の有権者の方で持ち寄るぐらいにせねば、信用のおける番人は出てくれないくらいのことは気がつきそうなものである。


尾崎行雄『民主政治読本』(昭和22年)、『尾崎咢堂全集第十巻』66頁より

『有権者中心の政治』


民政維新は正しい選挙から始まる。正しい選挙こそ民政維新の土台である。もしこの土台が崩れれば、立憲政治の機能は何から何まで将棋倒しに倒れてしまう。
・・・立法府中心の政治ということは、選挙中心の政治ということである。選挙中心の政治ということは、とりもなおさず有権者中心の政治ということである。それなのにわが国の有権者の多数はまだ自分の一票に憲政を活殺する程の力があることを知らない。その尊い理由を目で読み、耳で聞いても、それほどの値打ちがあるものとはどうしても信じられない。そこで、「頼まれたから」「金をくれたから」「ごちそうになったから」「義理があるから」いれてやろう。甚だしいのは「棄権をするとうるさいから」「迷惑だがいれに行こうか」と、選挙権を厄介者扱いにするものさえある。我が憲政のふるわない病原は、全くここにあると思われる。

・・・国民生活の幸不幸は、全く法律の出来具合いかんで決まる。・・・いかなる場合にも、絶対に国民を裏切ることのない法律制定者(立法府)をつくるか否かを決する力は、一票の選挙権である。この一票こそ人間の生命財産その他の権利自由を確保する最後唯一の自衛権であることを知らなければならない。

 

尾崎行雄『民主政治読本』(昭和22年)、『尾崎咢堂全集第十巻』64頁より。

 

本当の人間をつくる教育

・・・今までは教育までが、軍閥や財閥のために、天皇のためにという名目のもとに、いろいろな偽りや迷信で歪められていた。だからそれは人間に仕上げる教育ではなくて、むしろ人間を奴隷にする教育、鳥や獣にする教育であったのだ。それでその結果、自分が何であるかを知らない、人間としての魂を持たぬものができあがったのだ。

・・・諸君の生命や財産は誰のものでもなく、自分のものである・・・それと同じように、諸君が学校で教育を受けるのも、自分のためであるのだ。自分を人間らしい人間、鳥や獣と違った、本当の人間にするためであるのだ。自分のためといっても、何もかも自分さえよければよい、人の迷惑などはかまわないというのではいけない。それではまた鳥や獣になってしまう。自分を本当の人間にし、人間らしい生活をしようというのには、人にもそうしなければだめだ。

今、さかんに自由という事が言われているが、自由もその通りで人の自由を尊重しなければ、自分の自由は失われる。自由はわがままとは違う。だからお互いの自由を尊重し合うため、法律や義務やその他のきまりを守らねばならぬのだ。英国人は、非常に自由を重んじる国民であるが、またよく法律を守る国民でもある。どうしたらよく法律を守れるかと考える国民だ。日本人は、どうしたらよく法律をくぐってうまいことができるかと法律をくぐることを考える国民だと言われていた。これは本当の人間をつくる教育が行われていなかったからである。今われわれは、奴隷から解放されて、自由のある独立した人間となったのであるが、はたして、皆本当の人間になり、人間としての魂を取り戻すことができたであろうか。
 

尾崎行雄『わが遺言』(昭和26年)、『尾崎咢堂全集第十巻』345頁より。